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  このページのニュースは、海外協会の会員向け会報に掲載されたものから一部を抜粋して掲載しています。
 

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愛媛県海外協会報ニュースアーカイブ
2010年9月10日発行 海外報 第261号から   海外報最新ニュースへ 過去記事一覧リストへ
「この絆 いつまでも」 南加県人会創立100周年記念式典
                    〜知事団長に94人の訪問団〜
加戸知事を中心に大合唱
式典会場を埋めた330人

  南加県人会(松岡八十次会長)の創立100周年を記念する式典が8月1日、ロサンゼルス市内のホテルで開かれ、加戸守行知事を団長とする母県からの大型訪問団を迎え、大いなる節目を祝うとともに、さらなる100年に向けて交流を深めていくことを確認し合った。記念式典は物故者への黙祷で始まり、愛媛からの訪問団、地元の県人会関係者ら計330人が出席。会場に配布されたプログラムには松岡会長がしたためた「絆」の字が躍り、式典はなごやかな雰囲気のもと進められた。 
 松岡会長が主催者を代表してあいさつ。「私たちがロスでがんばってこられたのは古来つちかわれてきた武士道精神のおかげ。武士道で大切なのは文武両道の精神だと私自身思っている。文武両道は、ほかならぬ私たちのふるさと大三島から始まったのではないかと思う。そこには文武両道を象徴する源義経が使った赤糸の鎧が宝物として残されている。いずれにしても、このように多くの方々を集めて記念式典が開かれることを私たちは誇りに感じる。皆さんに感謝を申し上げたい」と会場を埋めた列席者に謝辞を述べた。
 続いて加戸知事が祝辞を述べ「皆さんはご苦労を重ね、相互扶助の精神のもと、幾多の試練や苦難を乗り越え確固たる地位を築いてこられた。県人会は創立以来、みなさんの心のよりどころとなってきた。皆さんは、戦後、愛媛大学の講堂建設に際し、多額の寄付を寄せてくれた。ふるさとへの思いと同胞としての絆は今も脈々と流れている。ここに次の100年へ向け新たな歩みがスタートする。皆さんがアメリカと日本をつなぐ架け橋となるよう願っている」とエールを送った。
 席上、知事による特別功労賞の授与があり、日本文化の継承や普及に功労があった宮田諦詮氏(78歳)=大洲市出身、高野山米国別院前主監△坂東三津拡さん(82歳)=八幡浜市出身、日本舞踊家△井上慎二氏(82歳)=西予市出身、元ロス教育局勤務、日本語学校を運営―の3人に賞状が手渡された。
 フィナーレでは加戸知事夫妻のリードで会場全員が唱歌「ふるさと」を大合唱。ハーモニーに乗せて海を越えて絆を大切にしていくことを誓いあった。
▼愛大報告に会場の拍手 南加記念ホールお披露目
松岡県人会長から感謝状を
受け取る井上海外協会長
報告する矢田部愛大副学長
  【式典ハイライト】  式典はもりだくさんの内容だった。司会役を担った県人会副会長のナンシー菊池さんは昨年7月、17人の会員らとともに「ふるさとツアー」で愛媛に繰り出した思い出などを発表。また、愛媛大学の矢田部龍一副学長が映像を紹介しながら同大学の南加記念ホールについて報告した。
 矢田部副学長は「大学が新設された際、皆さんは強制収容の痛手が残る困難ななか多額の寄付を寄せてくれた。おかげで、大学の講堂は建設された。せっかくの講堂だが、このところは、荒れるに任せていた。しかし、昨年のふるさとツアーで県人会の皆さんが大学を訪問してくれたことがきっかけとなり大改装し『南加記念ホール』の名前で保存することになった。皆さんのふるさとを思う気持ちを末永く伝えたい」と語り、会場の大きな拍手を受けた。
  【県人企業2社訪問】ロス空港に到着した一行は、先代が旧吉田町出身のマルカイスーパーマーケットの本部を訪れた。
ここでは社長の松秀二郎氏が異文化社会の中で企業経営する苦労話や、戦時中に旧吉田町に疎開し中学生活を送った思い出話などを披露。
 週末の買い物客でにぎわう店内には、あちこちに「歓迎 愛媛県海外協会」の張り紙が飾られ、松社長が講話をした会議室には店内で販売されている愛媛産品がズラリと並べられ、郷里との結びつきの深さをアピールしていた。
 訪問団の一行は式典を挟んで「ヤマサかまぼこ」も視察。 ここでは父親が伊方町出身のフランク川名会長が工場内を案内。川名会長は工程を説明しながら、ハンバーガー文化の中にあって、創意とチャレンジ精神で会社を切り盛りしている様子を伝えてくれた。
【サンフランシスコ、ポイント・アリーナへ】式典の後、公的訪問団、海外協会グループ、八幡浜の高校生はサンフランシスコに移動。八幡浜市出身のジョージ・矢野さんやヘンリー菊池さんと落ち合い、周辺に在住する県人と交流した。4日はサンフランシスコから北上。八幡浜市民が14年前に建立した「北針の碑」のたたずむポイント・アリーナ市へ移動。ここでも記念植樹など通じて現地の市民と交流を深めた。一行は観光、視察などを重ねた後、大いなる成果を収め7日夜、愛媛に戻った。
【訪問団の構成】
 県国際交流課と海外協会が事務局となって編成。加戸知事を団長に、西原進平県議会議長、井上善一県海外協会長の2人を副団長とする官民合同の構成。うち公的訪問団は県議9人を含め29人、民間は海外協会グループ、八幡浜の高校生・今治の高校生らのグループ、松山商工会議所グループを加えて65人の、総勢94人。海外協会グループには菊池仁志氏(伊方町在住、海外協会員)を代表とする移住者家族も加わった。
ようこそ 第6期ブラジル研修生 メリッサさんら4人 
                   〜来月、伊予路をぐるっと3週間〜
 協会が在伯県人会との間で平成10年以来展開している交換研修生制度。今秋はブラジルから第6回目となる研修生を受け入れることになった。メリッサ・メグミ・シライシさん(サンパウロ市在住、医療技術者)を団長とする4人。一行は10月5日に愛媛入りし、協会員やブラジル派遣研修生OB、市民ボランティアなどの受け入れ協力のもと、10月25日まで滞在。自らのルーツにつながる「ふるさと」の文化や歴史、産業を学ぶことにしている。
  研修スケジュールは、このほど開いた受け入れ委員会で大筋が決まった。4人の意向を加味しながら、3週間にわたっての企業視察や、名所巡り、ホームステイなどが予定されている。
  特に今回は、島博覧会が行われている松山の中島にも足を向け、島の人たちとの交流が計画されているほか、東温市西岡地区の公園ではお別れパーティーをかねた観月・国際交流の夕べも予定されている。


■ 第6期 ブラジル研修生の皆さん ■
 イベッティ・ノリコ・フジサキさん 看護士、医療コーディネーター(50歳)。サンパウロ県プレジデント・プルーデンテ市在住。祖父が伊予郡松前町出身の3世。県の研修員として1985年に県立中央病院で研修。「ファミリーのふるさとの文化や風土を体験したい」。日本語、英語たんのう。
 チアゴ・キヨシ・ナカヤさん システムエンジニア(25歳)。ブラジリア県在住。曽祖父が松山市出身。4世。広域行政局でシステム開発に従事。日系のボランティアや文化団体に所属。ホームレス支援などを経験したほか先の皇太子訪問では琉球国太鼓を演じた。日本語、英語たんのう。
 メリッサ・メグミ・シライシさん(団長)CT医療技術者(30歳)。サンパウロ市の県人会館のあるグロリア通り在住。祖父が松山市出身の3世。米資系病院で働き、来院者に対する健康のフォローを行っている。02年に県の研修員として県立中央病院で研修を行った。日本語、英語ともにOK。
 リエ・フジサキ・マツダさん マーケッティング戦略総合研究所勤務(26歳)。経営学修士。曽祖父が松前町出身の4世。会社では食品、美容品、医薬品、通信などのプロジェクトを担当。修士論文では親戚の会社「サクラ・ナカヤ食品」の市場の成長について論文を書く。英語、スペイン語流ちょう。
「苦難の時代を生き抜いた日系人」 
             〜ジョイ・コガワ氏 総会記念講演 要旨〜
【敵の中には 大切な友が  隠れている】 今知る 原爆の意味
  きょうは、父・中山吾一のことや私の作品についてお話したいと思います。 
  私たちは皆、心の中に石を持っています。人に言えないこと、苦しいことなど。その石が溶けると涙になる。その涙が心の傷を癒してくれるのです。
  きのう、父の生家がある大洲市蔵川と、祖先の墓のある大洲市白滝に行ってきました。私が1969年、初めて日本に来たとき作った詩があるので、まず朗読します。(別掲)
  お墓に向かい私の涙は止まりませんでした。今度日本に来たのは、何のためか。それは、この涙のためだと思いました。父が、あんなに奥深い山からカナダに来たことも驚きでした。
  父は14歳のとき父親をなくし、貧しい家を、母親を助けようと家を出た。歩いて松山まで行き、船で京都まで出た。そして、新聞配達などをして家にお金を送った。父は一生涯お金を送り続けたのでした。
  カナダに渡りバンクーバーにいるとき父は大変苦しくて死のうと思うことがあった。でも、夕焼けの中に母の姿を見て、元気がでてきて、思いとどまった。
  父は最初医者になろうと思っていた。しかし、最初に生まれた子が出産のときに死んだため、悲しみにくれた。そして、体を治す医者よりも、心を治す牧師になろうと決心したのです。
  戦争になり日本人は立ち退きを求められ、家を奪われ、全員収容所に送られた。戦争が終わっても帰る家はなかった。父はあちこちに分散して暮らす日系人のもとを一軒一軒訪ね歩き力になったのでした。
  とにかく、私たち日系人は、戦時中は日本人であることは悪いことだと思わされた。戦後も回りの人たちは自分たちの受けた差別や苦しみを語ろうとしませんでした。私が小説「失われた祖国」を書いたのは「その心の石を憎む、沈黙を憎む」という気持ちからでした。でも、今は違います。
  一番大切なことは「アイ、トラスト(任す、ゆだねる)」ということだと思うようになりました。失敗も間違いもすべて受け入れてくれる者に任す。ここにある愛、世界の愛に任す。そうすると、生きても死んでもいい、と思えるようになったのです。
  原爆は小さい石だけど世界を壊してしまいます。ですが、人の心の石はそれを溶かすことができる。「失われた祖国」には、長崎の原爆を登場させていますが、今ごろになってようやく、原爆の意味が分かってきたのです。
  書いているときには何を書いているのか、その時は分からなくても、ようやく分かったということです。私の目は前でなく、後ろにあるのです。(笑い)
  つまり、敵のなかに一番大事なお友達が隠れているということです。敵を殺すことは一番大事なお友達を殺すことになる。それが長崎の意味だということです。原爆ではクリスチャンも殺された。あの人たちはアメリカの一番大事なお友達。その意味で、私は今ごろ敵のなかにお友達がいるということを考えています。


【蔵川にある祖先の墓】  ジョイ・コガワ 作 浅海道子 訳
海を下り 四国へ/霧につつまれる 神秘な島 もの語りの島へ/汽車に乗り バスに乗り/山間の離れた村へ
父が草履をはいて歩いた 山道を追うと/父の夢は 変わることなく/飛び交い つづける
けわしい赤い山道を下った 高い丘の側に/私の祖先の墓がある/灰色と緑の しだが垂れ下がり/その陰を 幾重にも しだが覆いかぶさる 
言葉にならない 亡羊さに 私は震え/手の届かないところに 手をのばすけれど/全ては隠れていて 手には届かない
不思議な露が しだのにおいを通して/落ちてきた/木々のなかから 微笑みかける 死者たち 
私の心は 小石がとけて 涙になり/晴れてゆく
 

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